たわら の投稿一覧 (48件)
「四季のはざまが好きなの」と彼女は答えた。「春になるのか夏になるのか世界が決めかねているような感じが」それが僕の告白ーー付き合ってくださいーーの返答だった。彼女は芝居じみた様子で続けた。「まるで万物が気まぐれの脚本家の指示に戸惑っているようだろう」「僕は夏が好きです。迷うことなく。観劇も趣味じゃないです」「正反対だね、私たち」「だから惹かれたんです」正直な言葉が彼女を貫いた。「今私、恋の季節かも」
「最後の仕上げだ」彼は言った。夏の絵画コンクールのお題は『自分』だった。キャンバスには驚くほど精密な彼の顔が描かれていた。完璧な絵だ、と俺は思った。彼はバケツにすべての絵の具を出して水でぐちょぐちょに混ぜた。「何すんだよ」熱心に作業する彼に訊いた。「これは嘘だ、バグが足りてない、人間の」彼はおもむろにバケツに手を突っ込み、ドロドロの手で自画像をめちゃくちゃにした。「手を貸せよ、気持ちわかるだろ」
その頃僕は思春期でいろんなトラブルを引き起こしていた。友達を傷つけたことも。父はそんなとき僕を動物園に連れて行ってくれた。「あいつはお前と同じか?」パンダを指差して父は言う。「僕は人間。言葉を使うし、夢を見るし、二足歩行だし」父は笑って僕の目を見て言った。「違うな、同じだ。そこの自覚が足りない。同じ生命体だという深い自覚が。だから優しくなれない」いまでも言葉の真意はわからない。けれど大事にしてる。
「余韻って体のどこにあるんだろ?」と彼女に訊いた。さきほどの交響楽団の演奏は素晴らしかったのだ。「さあ? きっと記憶じゃないかな」と彼女は答えた。「記憶のどこ?」「表面」「表面?」「そう。すべては記憶の湖に沈む、けれど印象が強すぎて波紋が広がってるの、それが余韻。やがてなくなる」「みんな同じ?」「うん、神様がプログラミングしてるんじゃないの」「あれと一緒か、水上を走るバジリスクと」彼女は苦笑した。
「え、まだ紐で距離測ってんの? 三角測量に似てるけど、文明のロスタイムだろ。騙されたな。だってお前この惑星の文化の繁栄のポテンシャルやべーってあの春子婆さん言ってなかったか? あれホラなのか?まじかよ青惑星の単勝に一点張りだぜ、おれは。だめだパトロールいねぇよな、ちょっくらヒント置いてやる。文明爆速発展よ。ん、嘘だろ、あのガキ海に、蹴り落としやがった、、、伊能って家のガキだな、とっちめてやる」
彼女はすたすたとリビングを横切りカーテンの裏に隠れた。それからリズミカルに顔だけ出して、テーブルについてボールペンを持つ僕を見てくる。「何してるの?」「こういう夢を見たのよ」彼女はそう答えながら顔をしかめたり、ベロを出したり、白眼をむいている。僕は笑って名前の漢字さえかけない。「やめてくれ、結婚届が書けない」彼女はやめない。「私はこういう女なの。覚悟はある?」覚悟か。不思議と指の震えは止まった。
ホワイトボードに大事なことをメモした付箋を張っている。それを飼い猫に剥がされたことに朝気づいた。ソファにかけて野菜ジュースのストローを咥えた彼女の膝上で奴は眠っていた。彼女は鏡に手の甲を向けてはにかんでいた。野菜ジュース?彼女の機嫌がいつもよりいい。もしかしてバレてしまったのか、僕はゴミ箱をそれとなく見てみた。付箋がない。猫が咥えているのが彼女に見つかったのか。8号、ティファニー、と書いた付箋が。
「父の蔵書なの、これから燃やす」と、壁面に並ぶ古びた背表紙に圧倒された僕に彼女は言った。「欲しい言葉は書いてなかった、俺から時間を奪った、だから燃やせ。それが遺言なの」ダンボールやらビニール袋に大小の本を詰めながら彼女は言った。広い庭にふたりで運ぶ。本の山にガソリンを撒き火をつける。炎が上がる。彼女は僕のヘッドホンを指差して笑った。「それも燃やす?ほんとうに欲しい言葉なんて聞こえないでしょ」